「傷の舐め合い」は決して優しさじゃない
茶番以降、社会のおかしさや真実がネット上でどんどん溢れるようになりました。
そこでよく聞かれるようになったのが「団結せよ!!」という言葉です。
過去記事でも僕は団結という言葉をよく使っており、その時は文字通りの団結という意味で受け取っていました。
しかし、団結するにしろ、人を助けるにしろ、表面的な内容だけで受け取っていると「狂育の呪縛」に足を引っ張られます。
狂育の呪縛、それこそ「自己犠牲して他人に尽くせ」という儒教に基づくものです。
そもそも誰を助けるにしろ、まずは自分自神を助けないと何も始まりません。
自分を大切にされると本当の意味で覚醒するので、支配者にとっては都合が悪く、だからその逆を狂育で洗脳させたわけです。
自己犠牲で他人に尽くしても、その歪は絶対に誰かにぶつけられます。
自己犠牲は必ずどこかで自分のエネルギーが空っぽになるので、その不足したエネルギーを他人から奪います。
そうなると救おうとしたつもりが互いにエネルギーの共食いになり収集がつかなくなるわけです。
その歪を見ないようにするために「みんな不幸だからお前だけ幸せになるなんて許せない!!」という同調圧力ができたわけです。
嫌な現実がたくさん展開されるというのは、自神から「自分をいい加減に見つめなさい!!」という警告ですが、そこから逃れて「傷の舐め合い」をしている人が多いように感じていました。
また感情的な煽りやガス抜き、この誘導に嵌ってしまうと傷の舐め合いでどうにかなってしまうような錯覚に陥ります。
傷の舐め合いで他人軸になり、相手のレベルにまで落ちてズルズル悪い方向に行くことがいいことだと錯覚するのも狂育の呪縛であり、それは決して「愛」なんかではありません。
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自神を見つめず感情的に集まった集団は必ず瓦解する
団結というのも、ただ集まっただけでは必ず「瓦解」します。
なぜかというと、ただ感情的な理由で集まり群れて自神を見つめない状態だと、必ず原因を外のせいにします。
その原因を外のせいにするムードになると、必ずその集団の中で罪のなすりつけ合い、仲間はずれ、カーストが出来上がっていきます。
要するに、自神から逃げて外だけに原因を求めて群れたとしても、一時は団結したように見えても必ず瓦解するわけです。
また、学校狂育では「誰とも仲良く」と洗脳してきましたが、そもそもどんなに対話を試みても絶対にわかり合えない人もいます。
その狂育にしがみついて、わからせようと延々とわかり合えない人と戦い続ける人もいますが、それも別の見方をすれば自由意志を尊重しない支配者と同じなわけです。
なぜ「棲み分け」を何度も言ってきたのか、それは合わない人たちの自由意志も尊重し、争わず、干渉しないという「愛」だからです。
尊重しても同意はしなくてもいいし、そもそも良かれと思って自由意志を侵害するから争いが起きるわけです。
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ヒントを与えて互いに自神で生きるこそ「仲間」である!!
本当の仲間、団結とは何なのか。
それは互いが自分自神を見つめて自然体で生き、自由意志や役割を尊重できることでしょう。
また、相手が悪い方向に行っていたとしても抑えつけたりむやみに干渉するのではなく、「ヒント」を出して答えは相手に見つけさせる、そうすることで互いに自神を磨いていけるわけです。
本当の団結や仲間、それは「愛」であり、学校狂育の呪縛から完全に外れて初めて実現できます。
逆に言えば、狂育の呪縛が残っていると歪んだ関係になって、団結したつもりでも分裂したり争う結果になってしまうわけです。
狂育の呪縛を解けるのは「自分自神」しかおらず、故にまずは自分を助けて自分を労って満たすことで、初めて人を救えるということです。
もちろんこれらの情報が100%正しいとは限らないので、本当かどうかは各々で調べてみてください。
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最後まで読んでいただきありがとうございました😊✨
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